『 幸せのようなもの 』
昨年末を締めくくる漢字は「偽」でした。
「社長らのばれぬと思う脳不思議」、「言われなきゃ今も旨いと食っている」
「こんなにもやってバレずに来た不思議」、「謝ればいいんでしょうと子ども言い」
今年に入って2ヶ月余りが過ぎても、「偽」はまだまだ続いているようです。
私の叔母(母親の妹)が昨年末の12月31日に急逝しました。
子どもがいなかったこともあるのか、大人になってからも事ある毎に
「昭三くんは本当にやさしい子やね」と褒めることのとても上手な人でした。
決して誰に対してもやさしい訳ではなく、
何となく叔母の前ではやさしい自分になれて、
大切な人だったのでいろんな事を思い出します。
たしか私が10代の終わり頃、現金書留でお年玉だったか何かお小遣いだったか、
その中に「幸せのようなもの」と「本当の幸せ」の違いが判るように、
というような内容の手紙をもらったことがあります。
当時の叔母と同じような年齢になった今、
世の中や社会の仕組みそのものが 、
「幸せのようなもの」いわゆる「偽もの」なのかもしれないと思い始めています。
スイッチポンで何でも出来て、手間のかかることを避ける。
ゆっくり何かを待つ、そんな時間を無駄に感じ、
便利で快適でスピーディ、常に誰かと比較することでしか幸せを計れない、
そんな「幸せのようなもの」を求め続けているように感じます。
大晦日から元日にかけて、一生忘れることのない日に、
人間の命のはかなさを身をもって教えてくれた叔母に、
心から「ありがとう」と感謝しています。
「感謝するから幸せになれるんよ。
けっして幸せのようなものに惑わされたらあかんよ!」
聞こえてきそうです。