「適当」とは、機に臨んで適切な対応を執るという意味です。 つまり、臨機応変。 これが本来の「適当」なのですね。 ところが、普段は私たちは「ちゃらんぽ らん」という意味で使っていませんか? 「何を適当にやってんだよ」とか、 「いい加減なことするんじゃないよ。」なんて。 「適当」も「いい加減」も本来は 否定的な意味はないはずなのに、 それがいつの間にか「適当」は「テキトー」になり、 こともあろうに「テケトー」にまでなってしまっているし、 「いい加減」は本来 「いい塩梅(案配)」が 「エエカゲン」に変化してしまっているようで、 それって如何なモノなのかいな・・・。 そう思った瞬間に、ものすごく楽になりました。 そして、私の本来の姿が再び現れたのです。 それは、「ワルノリ」。 そう。「悪乗り」です。 もともと黒っぽいギャグが好きな私。 まさかそれが、今年の入塾案内で 炸裂させることになるとは・・・。 その名も「塾からの逆襲」。 「こんな入塾案内なんて見たことないぞ!」という ツッコミすら起きてしまいそうな内容を掲載したらどうなのよ。 このノリで作り始めたら、出てくるわ出てくるわ・・・! ホント、おもしろいように文章がわき出てきて、 一挙に書き終えてしまったのです。 思い詰めて考え詰めて、 やっとのことで入塾案内を作成した昨年とは大違いです。 おまけにそこから派生したチラシも あっという間に5通り作ってしまいました。 例年になく文字量が少なくて絵が多いのは、 このノリで作ったからです。 ナンか不謹慎ですか? いいえ、決して「テケトー」に作ってはいません。 だって、伝えるべき人にはきっちりと伝わるように、 それでいて、自分が伝えたくない人には伝わらないように、 「KUMAKKO CLUB」同様に、 私なりの計算をしつくして作成したつもりだから、 不謹慎ではないのです。 それに、本当に不謹慎な想いで作っていたとしたら、 みなさんにあまりにも失礼ではありませんか。 それこそみなさんにとって、 この上もなく迷惑なことです。
これは、ある生徒の親御様から伺ったお話なのですが、 聞いた直後にはあまりに信じがたくかつ にわかに理解しがたくて、自分の耳を何度も疑いましたから。 生徒の理解度が遅かったり浅かったりすると、 それだけで暴れる先生がいるそうです。 「は? 生徒が、分からないとか 覚えられないと言って暴れるんですよね?」 「いいえ、先生ですよ。」 暴れてどーすんのよ。 おおかた、塾長から恐ろしいほどのプレッシャーを かけられているか、聞けばその塾出身の講師だ ということなので、 よほどその塾長から強烈な教育を受けたか、 それもかなり論外で屈折したご立派な教授法でもって、 でしょうね。 でもこれはかなり危険です。 そのうちに物覚えの遅い子は、 その先生にとって仮想の敵のようにされてしまって、 周囲の、自分に決して危害が及ばないようにと 無関心を装う子どもたちにまで敵視され、 やがて「仮想」が「現実」のものとなり、 最悪の場合は、あの京都の事件のように悲惨な結末に至る 可能性すらはらんでいます。 ところが、こういうクラス、 こういう塾に限って糾弾する声が挙がらない。 それは、発言力のある子どもが実害に遭っていないからと、 口外すれば今度は自分に火の粉がかかってくるかもしれないことを 読んでいるからこそ、 この塾長や講師が作り上げた暗黙の脅威に屈しつづけ なければならないのでしょう。
さもしいなぁ・・・。 悲しいなぁ・・・。
でも、ひとつ間違えば、 私もそうなっていたかもしれないのです。 それは、そういった支配的な想いは誰の心の中にも 棲みついているからです。 たいていの場合、それを制御する心の方が大きいから、 どうにかバランスを保っているだけで、何かひとつ狂えば、 たちまち噴出する時代になってしまいました。 すいぶんと荒れ果てたものですね。 こんな世相だからこそ、適当に生きなきゃ。 適当に生きるからこそ、相手を許せるのです。 思い詰めない。 考えすぎない。 教えすぎない。 与えすぎない。 適所適材。 適量適切。 特に難しいのは、適切に対処すること。 なぜなら、機を見るに敏なる人でなければできないからです。 私は、こういう指導者になりたい。 私は、こういう指導者でいつづけたい。
<<コラム目次に戻る